2008年9月30日(火) 開拓の村、鰊御殿

a0064654_1346419.jpga0064654_13462367.jpga0064654_13464047.jpg開拓の村。明治村のようなコンセプトであるということだったが(僕は、明治村行ったことないが、楽しいらしい)、なかなか面白かった。

旧浦河支庁も、明治時代の交番も駅前旅館もよかったが、一番感動したのは、鰊御殿。僕は、不勉強にも、鰊御殿とは、鰊漁で大儲けした網元が建てた大邸宅のことであると誤解していた。実は、それは、企業体そのものだったのだ。まず、鰊御殿は、単体の建物ではない。母屋のほか、海にせり出して建てられた建物、母屋の後ろに連なる倉(それも書庫、米倉、味噌倉、網倉等に分かれている)、鰊の加工場、番屋などすべてを含んだ総合施設なのだ。

a0064654_1347820.jpga0064654_13475049.jpga0064654_1348471.jpg
母屋に入ってびっくり、土間を挟んで右手が親方一家の家、これは、勿論、そこそこ豪華だ。左手に対をなす部分は、なんと季節労働者の居住空間なのだ。コの字形の2層構造に畳がびっしり80枚敷いてある。この畳一畳が1人分の空間なのだそうだ。コの字形の真ん中の部分は板間になっており、皆、自分の畳の前で板間に向かって座り食事をしたのだそうだ。そう、鰊御殿は、80人が寝起きする宿舎でもあったのだ。板間に立て札があり、喧嘩、賭博を固く禁ずる、などと仰々しく書いてある。中には、荒くれ者や無法者もいたのだろう。80人の喧騒が想像できるようだった。

書庫には、歴代の漁獲高、収入、支出の細かい記録などが保管されていたという。網倉には、毎年、漁を終えたあと、洗って手入れをした網や、各種の漁具、道具が保管されたそうだ。そして米倉、味噌倉には、ずべて自家製の米、味噌が蓄えられていた。米は1日45Kg必要だったそうで、外から買うなどという選択肢はなかったのだろう。自前の田畑を持ち、自給していたとのことだ。

こういう事実を知るにつれ、驚愕を通り越して、先人への尊敬の念が沸いてくるのだった。この人たちは、百数十年前の明治時代に、鰊の量を予想し、漁獲高の計画を作り、それに応じて人を雇い、組織立て、食糧を準備し、漁具を揃え、漁獲後の加工の段取りを整え、流通への販売の算段をし、漁期が終わると収支をまとめ、記録に残し、翌年の支度をしていたのだ。今でいう3rd Partyが使える時代ではなく、必要な業務や資源をすべて自前で調達していたのだ。現代企業でいう、経営管理、資材、人事、生産管理、生産、財務・経理、販売などが、すべてこの鰊御殿の中で機能していたのだ。それも100人もの規模でだ。すごい、の一言に尽きる。
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by gomanis | 2008-10-06 13:48 | 一般


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